サイズ:H31cm 素材:陶磁器 ※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
ヘーラクレース は ギリシア神話の半神半人の英雄であり、英雄たちの中でも最大最強の存在であり 神々にも引けを取らぬ宇宙規模の怪力を誇る。
のちにオリュンポスの神々の一員になったとされる。
キュノサルゲス等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰された。
その象徴は 弓矢、棍棒、獅子の毛皮である。
星座名のヘルクレス座は ローマ神話(ラテン語)名ヘルクーレスから来ている。
各地で 呼び名は変わるが 日本語では長母音を省略してヘラクレスと表記される。
ヘラクレスは ゼウスとアルクメーネー(ペルセウスの孫に当たる)の子。
彼女を見初めたゼウスは、様々に言い寄るが、彼女は アムピトリュオーンとの婚約を守り、決してなびかなかった。
そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけている間に 彼の姿をとって 遠征帰リを装いようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。
アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。
それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神を遣わし 双子のヘラクレスの誕生を遅らせた。
こうしてヘラクレスは 誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。
ヘラクレスの誕生後、ゼウスはヘラクレスに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。
ヘラクレスが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。
このとき飛び散った乳が 天の川(ミルキーウェイ 乳の道)になったという。
ヘラクレスは 義父アムピトリュオーンや神々に 武術を師事して、剛勇無双となった。
キタイローン山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。
ヘラクレスは クレオーン王の娘メガラーを妻にして その間に 3人の子供が生まれた。
しかし、ヘーラーに狂気を吹き込まれ ヘラクレスは 我が子を炎に投げ込んで殺してしまい、悲しんだ妻も自殺した。
正気に戻ったヘラクレスは、罪を償うためにデルポイに赴き、アポローンの神託を伺った。
神託は、「ミュケーナイ(アルゴス)王エウリュステウスに仕え、12の功業を果たせ」というものだった。
ヘラクレスは 本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。
「ヘラクレスの選択12の功業」といえば、敢えて苦難の道を歩んでいくことをいう。
面白い冒険譚 12の功業の1つが、「ヘスペリディスの黄金の林檎」 です。
ヘスペリデス「黄昏の娘たち」(アトラスの娘たち。
アトラスは 神々との戦いに敗れ ゼウスによって、世界の西の果て「ヘスペリデスの園」の近くで 天空を背負うという苦痛を伴う役目を負わされている)は アトラス山の頂にあるヘーラーの果樹園「ヘスペリデスの園」に植えられた黄金のリンゴの木を世話して、明るい声で歌を歌っている。
黄金の林檎は 百の頭を持つ竜ラードーンが守っていたが、ヘラクレスはこれを倒して林檎を手に入れた。
ラードーンは、りゅう座となった。
一方アポロドーロス(1世紀から2世紀頃 古代ローマ時代のギリシャの著作家。
『ギリシア神話』の編纂者)は全く異なる伝説を伝えている。
ヘラクレスがアトラスのところに赴き、自分が天空を担いでいる間に林檎を取ってくるよう頼むと、アトラスは これに従い林檎を持ち帰った。
しかし、再び天空を担いで身動きできなくなるのを嫌って、自分が林檎をミュケーナイに届けると言い出した。
ヘラクレスは一計を案じ、頭に円座を装着してから天空を支えたいので少しの間天空を持っていてほしいと頼んだ。
承知したアトラスが天空を担いだところでヘラクレスは林檎を取って立ち去った。
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ブラックバサルト(玄武岩) 1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。
ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名されした。
この年 この地で行われていた 無釉黒色セッ器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成。
ジャスパーウェアの魁です。
1787年原作 1998年復刻 限定150 H31cm 1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミンスター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し 7年戦争の火蓋を切りました。
鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しました。
この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセンを 売り飛ばすのです。
ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレムの地に ジョサイアによって 生み出されました。
ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり 右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。
しかし 強い意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国陶工の父」と尊称される程の人物になりました。
1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。
ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。
この年 この地で行われていた 無釉黒色せっ器を改良して ブラックバサルトを完成(1707年 ベトガー完成の朱泥せっ器に同じ)。
ジャスパーウェアの魁です。
リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。
彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。
1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。
彼の天分は 息子ジョサイアII世に受け継がれ 脈々と生き続けました。
エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。
ポートランドの壷 古代ローマ(紀元前27年〜紀元14年頃)作のカメオガラス。
1582年 古代ローマ皇帝の墓所で 発掘。
めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャスパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。
彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇りの象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。
ボーンチャイナ 英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いくつかの窯で 細々と試みられていました。
一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。
1795年頃 この軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。
さらに1819年 現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。
英国ボーンチャイナ確立 クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(1780年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと 大幅に遅れることに なりました。
しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず 1828年には 取りやめました。
今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再チャレンジは 1878年の遅きになりました。
やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイルドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターンブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。
現在のパターンは 1965年発売)を 始 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しいファインボーンチャイナを 完成させました。
余談になりますが ウェッジウッド家の 科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアの娘スザンナの子が チャールズ・ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)でも有名で 世に喧伝されました。
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ブラックバサルト(玄武岩) 1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。
ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名されした。
この年 この地で行われていた 無釉黒色セッ器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成。
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1787年原作 1998年復刻 限定150 H31cm